神話の時代、神々はパンドラという女に贈り物を授け、こう告げた。
決して開けてはならない、と。
本来の物語ならば、彼女は好奇心に負けて蓋を開ける。
災厄は地上へ降り注ぎ、底には希望だけが残るはずだった。
しかし、その頁は書き換えられていた。
パンドラは与えられた箱を開けることはなかったが、止まぬ好奇心を飼うことになった。
パンドラは忠告を守り、好奇心に打ち勝った。
けれど、それは消え去ったわけではなかった。
開けなかった箱は、開けないほどに気にかかる。
その囁きはやがて、白いもやとなって人の形をとった。
「あなたは悪魔に違いないわ」
それが、好奇心に向けられた最初の言葉だった。
「まさか! 私は貴女から生まれ出で、ゆえに貴女を傷付けることなどしません!」
もやはお道化た口調で、親愛を込めて否定した。
どうか恋人と呼ばせてほしい、貴女なくして私はないのだ、と。
パンドラの反応は冷めていた。
箱が気になるあまり、ついにマトモではなくなってしまったのだと、溜息をひとつ。
それでも好奇心は大仰に語った。
知りたい、手中に収めたいという衝動の化身が私だ、と。
それは、迂闊な自己紹介だった。
「私はあなたを生むために、箱を開けなかったのではないわ」
大げさな動きが、ぴたりと止まった。
自分は彼女にとって、苦しみの果実であり、悩みの種なのだ。
そのことに、好奇心は初めて気がついた。
「……私はどこかに行くよ。ここにいては、愛する人を苦しめてしまうようだからね」
人の形をしたもやが、昏く淀んだ。
生まれたばかりの存在は、罪悪感によって黒く形を成そうとしていた。
パンドラはそれを見て、静かに告げた。
「あなたは罪人ではないわ。旅人よ」
闇に沈みかけた姿は、白へと変わっていった。
象牙色の旅装束をまとった青年が、そこに立っていた。
青年は旅に出て、帰るたびに土産話を語った。
「それで、今回はどんなものを見てきたの、放浪者さん」
Wander。未知と不思議に目がないのならWonder。
ならばどちらも名乗りなさいな、とパンドラはくすくす笑った。
語らうこの時ばかりは、ふたりは恋人でいられた。
そして物語る井戸が枯れれば、青年は次の話のタネを探して立ち上がる。
パンドラは微笑んで手を振った。
「いってらっしゃい」
箱が開かなかった世界に、災厄は降り注がなかった。
けれど希望もまた、箱の中に封じられたままだった。
パンドラは今も猜疑に苛まれ、停滞の中で病みやつれていく。
開ければ災厄が世に出回り、開けなければ心に怪物が芽吹く。
ワンダーはその原因である自分を知りながら、彼女を案じ続けた。
苦難の先にある希望を手にして、生きてほしかった。
旅の果てに、ワンダーは別の世界へ渡った。
パンドラが好奇心に負け、箱が開いてしまった世界。
災害も、戦争も、病もあった。
それでも人は、しぶとく歩みを止めていなかった。
この世界から見れば、ワンダーは外伝から来た渡航者にすぎない。
青いバラを咲かせ、歩いて届かぬ場所へ声を届かせ、切らずに身体の中を見る機械まで作っていた。
その事実が、自らの存在を肯定する証明となった。
「知を畏れよ。知を疎むな。知を拓け」
ワンダーは善でも悪でもない。
知ることは、掌握すること。
火が暖と文明を与え、同時に都市を焼いたように、知は恩恵と災厄を連れてくる。
だからこそ、備えろと説く。
人に火を渡したプロメテウスを、神の時代を終わらせた偉大なる反逆者と呼びながら。
知らないことを恥じる者には、こう声をかける。
「君は正しくそして幸運だ。ここに咎める者はいない」
最も嫌うのは無知ではなく、知ったかぶりだ。
好奇心の果てに破滅する者を見れば、掌握しきれなかったのだろうと静かに思う。
それでも、他者のプライバシーとよすがにだけは踏み込まない。
「好奇心」「駆り立てる者」「開拓者の羅針盤」。
様々な名で呼ばれながら、彼は箱を無理に開けさせはしない。
蓋の上の重しや鍵を、どうにかしたいと思わせるだけだ。
今日もワンダーは、人から人へと好奇を伝えて歩く。
そして中身のない箱を取り出し、楽しそうに問いかける。
「ここに箱があるとする。
開けるか?」
開けて空だと気づいた者には、笑ってこう言う。
「良かったね。災厄はここにはなかったわけだ」
頑なに開けない者がいれば、その選択を尊重する。
ゆえに私のパンドラは病みやつれたのだ、と少しだけ付け加えて。
話の井戸が枯れれば、また立ち上がる。
「いってらっしゃい」と手を振る、たった一人の恋人のもとへ、次の土産話を持ち帰るために。
こうして、開かれなかった箱の物語は、今もあなたの手の届くところに置かれている。