ある若い男のもとに、美しい娘がやってきた。
「絶対に中を覗かないと約束して下さい」
娘は貧しい男のために美しい布を織り、男はそれを売って裕福になった。
三枚目の布を織るために娘が部屋にこもると、男は気になって仕方がなくなった。
娘はどうやって、あんな美しい布を織っているのだろう。
本来の物語ならば、男は約束を破って部屋を覗き、正体を見られた鶴は遠くへ飛び立つはずだった。
しかし、その頁は失われていた。
男は娘の正体に気づかぬまま、仲睦まじい夫婦として一生を共にした。
その鶴には、母がいた。
名前はない。
人間からは「たづ、たづや」と呼ばれていたので、便宜上たづと名乗っている。
夫はすでに亡くなり、一人娘を可愛がっていた。
自然にあるがままが一番だと、たづは思っている。
恩を返しに行くと飛び立った娘を、引き止めはしなかった。
鶴が恩を返すのも、自然なことだと思っていたからだ。
恩返しが済めば、娘は空へ帰ってくる。
たづはずっと、その日を待ち続けていた。
けれど、待てども暮らせど、娘は帰ってこない。
季節が巡り、幾年が過ぎても、空に娘の姿はなかった。
一体どうしたのかと、たづは人の里へ見に行った。
そこにいたのは、全身の羽根を失い、すっかり弱り切った娘だった。
娘は、夫となった男が天寿を全うしようとしている姿を、静かに見守っていた。
布を織るたび、娘は自分の羽根を抜いていたのだ。
男は最期まで、妻が鶴であることを知らないままだった。
部屋を覗くことも、問いただすこともなかった。
交わした約束は、一生守られたのだ。
「どうしてこんなに弱ってまで、この男に尽くしたの」
たづは涙を流した。
娘は、微笑んでいた。
「愛おしい人と過ごせたこの一生、彼を知らぬ千年よりも多くの幸せをいただきました。ですから、いただいた幸せの分だけ、向こうでも御供したいのです」
たづには、返す言葉がなかった。
千年を生きる鶴の娘が、人と過ごした短い一生を、千年より多いと言う。
その重さを測るものさしを、たづは持っていなかった。
男が天へ召されて、間もなくのことだった。
娘もまた、旅立った。
羽根のない身体で、母ではとうてい届かぬ天高くへ。
たづの羽根は、今も立派なままだ。
どこへでも飛んでいける。
それでも、あの空にだけは届かなかった。
たづは空を見上げたまま、長いこと動けなかった。
自然にあるがままが一番。
鶴は鶴として空を飛び、千年を生きるもの。
たづは、ずっとそう思ってきた。
ならば、娘の一生は何だったのか。
羽根を失い、人のそばで短く燃え尽きた、自然に反する生き方。
それなのに娘は最期に、幸せだったと語って微笑んだ。
どちらが正しかったのか、鶴の理では測れない。
その言葉が、たづの中からずっと消えない。
娘がいなくなってからも、たづは考え続けている。
何が幸せなのか。
推定五百年を生きてなお、答えは出ていない。
「誰にとって何が幸せか……数百年前もわからへんかったけど、数百年経った今でもわからへんもんやなぁ……」
だからたづは、この集まりにやって来る。
色んな人の幸せの話を聞くことで、娘がたしかに幸せだったのだと、自分を納得させたいのだ。
「千年に相応しい幸せいうのがどんなもんなんか知りたいと思うて」と、のらりくらり笑いながら。
立派な鶴の羽根は、人に化けて隠すこともできる。
娘が人の姿で暮らしたのと、同じように。
面倒見がよく、嫌味は少なめ。
「あら、随分とかあいらしいお客さんやこと」と、誰のことも柔らかく迎える。
娘に似た子を見つければ、懐かしそうに目を細めて少しからかう。
巣立った他の子どもはいるのかと聞かれれば、笑って誤魔化す。
いるかもしれないし、いないかもしれない。
今夜も白い鶴は、人の姿でそこにいる。
「ええ夜やねえ。うちは『たづ』てよう呼ばれとります」
穏やかに微笑んで、また誰かの話に耳を傾ける。
誰かの幸せを聞くたびに、あの日の娘の笑顔を思い出しながら。
答えが見つからなくても、急ぎはしない。
余生は、まだまだ長いのだから。
「お客さんの幸せについて、
ぎょうさん教えてもらえたら嬉しいわあ」
こうして、覗かれなかった部屋の外で始まった物語は、千年の答えを探しながら、今も静かに頁を重ねている。