本来の物語で、乙姫は浦島太郎を地上へ返しました。
そして従者の亀の瞳を通して、その後を見ていました。
玉手箱を開いた浦島が、三百年分の煙を浴び、どんどん年老いて、最後には塵となってしまう姿を。
こんなことになるのならば、地上へ返さなければよかった。
元の物語を知っているからこそ、もう最愛の人を失いたくない。
そんな思いで、頁は書き換えられました。
行っていらっしゃいまし。
その言葉は、もうどこにもありません。
むかしむかし、浦島太郎という釣りで暮らす若者がおりました。
ある日、子供たちにいじめられている小さな亀を見つけ、魚と少しばかりの金で買い取って、海へ返してやりました。
海ができた時からいる豊玉姫は、宮使いの瞳を通して、その姿を見ておりました。
そして、浦島を好きになったのです。
ずっとそばにいてほしい、と。
しばらくして、大きな亀が浦島を迎えに来ました。
「浦島様を竜宮城へご招待致しましょう」
青い青い海の底、暗闇の中に、眩い光を放つお屋敷がありました。
黄金の壁に、瑠璃の花。
透き通った羽衣をはおった美しい姫が、彩り豊かな魚たちとともに浦島を迎えました。
「浦島様、お待ちしておりました♡」
四ツの戸を開ければ、海にはないはずの花も虫も、四季の景色も広がっておりました。
毎日が面白く、毎日がめずらしい。
そんな日が続き、浦島は気がつけば三年も竜宮城で過ごしておりました。
ある春の夜、浦島は懐かしい夢を見ました。
海で魚を釣り、父と母の待つ家へ帰る夢です。
それからは、どんな舞を見ても、どんなご馳走を食べても、何も感じなくなりました。
「実は……うちに帰りたくなってしまったのです」
乙姫様は、今にも泣いてしまいそうな顔をなさいました。
「まあ、……それは残念でございます。ではいたし方ございません」
『どんな手をお使いになっても浦島様にはここにいてもらいます』
周りの魚たちの目が赤く染まり、一斉に浦島へ襲いかかりました。
目が覚めると、そこは荒れ狂う吹雪の中でした。
罪人を処罰するための場所、北の戸の中心部です。
体は縄で縛られ、身動きも取れません。
「上でのことを忘れ、わたくししか考えられぬようにするのでございます♡」
こんな所に一週間もいたら死んでしまう、と浦島は叫びました。
姫は吹雪の中へ去りながら、ただこうつぶやきました。
「……浦島様は決して死にませんよ」
吹雪は、かみそりの刃のように体を裂きました。
なぜ、地上へ帰りたかったのだっけ。
なにか大切なものがあったような。
もう、何も分からない。
一週間後、姫は浦島の顔をそっと持ち上げて、もう一度尋ねました。
まだ上へ帰りたいのですか、と。
「おと……ひめ……さまと……いっしょ……に……いたい……」
にこりと、姫は笑いました。
「その言葉をずっとわたくしは待っておりました……」
吹雪がやみ、景色は四ツの戸がある広間へと変わりました。
「これからずっとわたくしとおりましょうね♡ ずーっとずぅーっと一緒でございます♡」
その夜、姫は宝石を散りばめた箱を取り出しました。
中にあるのは、黒く鈍い紫がかった石。
地上へ持ち出せば煙となる、人間の寿命です。
「こんな醜いものが宝など……笑ってしまいます」
姫はそれを、飴玉のように口の中へ放り込みました。
これで浦島は、老いることも、朽ちることもありません。
「永遠にわたくしと一緒でございます……♡」
「その喜ぶ顔、その泣く顔、その怯える顔。全て全て愛おしいのでございます」
人間が美しいのは、笑ったり泣いたりするから。
虚ろな目をした今の浦島に、もうそれはありません。
姫は、壊しすぎたと後悔しています。
それでも、老いない肉体は美しく、もう逆らうこともない、姫だけのものです。
だから旦那様として、永遠に隣に置いております。
そして姫は、二度と同じように壊さぬよう、訪れる者をガラス細工のように扱うのです。
浦島太郎は、二度と地上へは帰って来ませんでした。
暗く青い海の底、美しい女性の膝の上で、虚ろな目をしながら撫でられております。
今宵、姫は穏やかに微笑んで、読者様を迎えます。
なぜ永遠を否定するのでございましょう、と首をかしげながら。
ここでは辛いことも苦しいことも、何も感じないのですよ、と。
断られれば、心から残念そうに眉を下げ、また言葉巧みに永遠を勧めるのです。
「どうかわたくしを、
受け入れてくださいまし?」
こうして、誰も帰ることのない物語は、今も海の底で、次の読者様をお待ちしております。