月の明るい夜、十五歳になった人魚姫が、海の上に顔を出しました。
本来の物語ならば、海にはたくさんの明かりをつけた白い船が浮かんでいるはずでした。
姫はその船の上に王子を見つけ、恋に落ちるのです。
しかし、その頁は書き換えられていました。
どこから現れたのか、どうやって来たのか、1人の少年が海から頭を出した岩の上に腰をかけていました。
少年は貴族のような衣装を身にまとい、ただ穏やかに流れる海を眺めていました。
海の底で人間に憧れ続けてきた姫にとって、それは初めて目にする本物の人間でした。
姫は一目で、その少年に惹かれました。
そこで、人魚の国の魔女にこう頼んだのです。
「……人間と結ばれるように、私を人間の姿にしてください」
魔女はその願いを聞き入れ、人魚姫を人間の姿にしました。
「人間」と想い合わなければ泡となって消える、という呪いとともに。
人間の姿になった姫は、あの少年を探しに海の上へと向かいました。
そこにはまるで彼女を待っていたかのように、あの少年があの日と同じように居ました。
目が合うと、少年は手招きをしました。
二人はその場で、時間も忘れてお話しをしました。
少年の名はミシェル。ある一国の王子だということも分かりました。
姫はだんだんとミシェルに惹かれていき、二人が惹かれあうまでそう時間はかかりませんでした。
穏やかで、さわやかで、誰にでも優しい王子。
姫の憧れた人間そのものでした。
姫が地上のことを尋ねれば、少年は楽しそうに語ります。
海の話になれば、なぜか少年も、よく知っているように頷きました。
姫はそれを、不思議だとは思いませんでした。
二人は、人生で最高のひと時を過ごしました。
しばらくした後、姫はふと自身の体に違和感を覚えました。
見ると、指先が少し泡になりかけていたのです。
呪いは「人間とお互いを想い合わなければ泡となって消える」というもの。
姫は不思議に思いました。
「なぜですか!? 私は人間と……ミシェル様と想い合っているではないですか!!!」
姫が嘆いても、体が泡になっていくのは止まりません。
隣にいる人を、こんなにも想っているのに。
その人も、こんなにも想ってくれているのに。
自身が消えてしまうと悟った姫は、残された時間を使って、ミシェルに手紙を書き残しました。
伝えたいことは、いくらでもあったはずです。
けれど、泡になっていく指で綴れたのは、たった一言でした。
「さよなら」
そしてその夜、姫は誰にも見られずに姿を消しました。
あとには、海の泡さえ残りませんでした。
実は、ミシェルは人間ではありませんでした。
その正体は、姫と同じ人魚。
名前を、マリーナ・オケアリアといいました。
マリーナは自分の住む国でふと人魚姫を見かけ、痛く惚れ込んでしまいました。
そして魔女に頼んで、人間の姿に変えてもらっていたのです。
姫が岩の上で見つけた少年は、最初から姫のためにそこにいました。
姫の呪いは「人間」と想い合わなければ消えるというもの。
姫が想い合った相手は、人間ではなかったのです。
その際には伝えられませんでしたが、マリーナにも呪いがかけられていました。
「想い人と結ばれることは永遠にない」という呪いを。
当然、マリーナはそんなことを知る由もありません。
姫が姿を消してまもなく、ミシェルは置かれた手紙を読みました。
そこに書かれていたのは、さよならの一言だけ。
姫がなぜ消えたのかも、ミシェルには分かりません。
自分が人魚であることが理由だったとは、思いもしないのです。
ミシェルという名前は、マリーナ・オケアリアの綴りの中から抜き出したもの。
本当の名前の中にありながら、本当の自分ではない名前です。
そしてそれからずっと、彼……いいえ、彼女は、消えた姫を探し続けているのです。
今日もミシェルは、王子の姿で人々の前に現れます。
穏やかで人当たりがよく、さわやかにはっきりと話し、話す人みんなと仲良くなりたいと願っています。
けれど、いつ何時も、心にあるのはいなくなった人魚姫のことだけ。
「やあ、こんばんは!
少し、話をしていかないかい?」
こうして、さよならの一言から続く物語は、結ばれることのない呪いを知らぬまま、今も海のそばで頁を重ねている。