むかし、中山から少しはなれた山の中に、ごん狐という狐がいた。
ごんは一人ぼっちの小狐で、しだの茂った森に穴をほって住み、いたずらばかりしていた。
はたけの芋をほりちらし、菜種がらに火をつけ、とんがらしをむしりとる。
本来の物語ならば、ごんは兵十のうなぎを盗み、その償いに栗や松茸を届け続ける。
そして最後には、兵十の火縄銃に撃たれるはずだった。
しかし、その頁から「一人ぼっち」が失われていた。
一人ぼっちの子狐は、いなかった。
ある雨の日のことだった。
強くなる前にと畑に出てきた兵十のおっかあが、一匹の子狐を見つけた。
まだ生まれて間もない、名前もない子狐だった。
迷子になって罠にかかり、ひゃんひゃんと鳴いていた。
原典であれば、誰にも見つけられなかったはずの子狐だ。
おっかあは罠を外してやり、家に連れ帰って手当てをした。
それは、生まれて初めての温さと安堵だった。
子狐は懐いた。
それはそれは、ものすごく懐いた。
最初こそいい顔をしなかった兵十も、あんまりにも人を疑わない子狐に絆された。
こんちゃん、ちびちゃん、ちびすけ、きつねっこ。
二人は好きなように子狐を呼んだ。
子狐は、そのどれもが自分を呼ぶ声だと思った。
「ちびちゃんも、こぎつねも、ちびすけも、ボクぅのおなまえなの!」
おっかあと、ぶっきらぼうな兵十に大事に大事にされて、日々すくすくと育っていった。
いつのころからか、こんちゃんは人の姿をとれるようになった。
いつだったのかは、もう覚えていない。
ただ、二人の畑仕事を手伝いたかったのだ。
おっかあは、べべをこさえてくれた。
兵十は、かごと麦わら帽子をくれた。
どれも、こんちゃんの宝物になった。
「ニンゲンのおててな、なんでもできるの!
だからボクぅな、おっかあたちをおてつだいするの!」
おうちの近くには、大きなおやまがある。
こんちゃんはかごを背負って山へ入り、おいしいものをたくさんたくさん集めて帰る。
それをおっかあと兵十が、ごはんにしてくれる。
おっかあのおやきも、兵十が焼いてくれるウナギも、大好きだった。
山の中には大きな川があって、そこではうなぎがとれるのだと、誰にでも嬉しそうに教えてやる。
雨が降り続くあいだは、外へは出られない。
けれど、穴の中でしゃがんでいる子狐はいない。
小さな子狐は、二人の膝の上でちょんと座り、空を見上げている。
あるとき、おっかあの体調が悪くなった。
ウナギが食べたいというおっかあのために、兵十は山の中の川へ向かった。
こんちゃんはおっかあのところへ置いてこられたのに、自分からとことこついてきた。
本来の物語ならば、この川で小狐は、兵十のうなぎを盗むはずだった。
そのいたずらが、すべての始まりになるはずだった。
けれどこの子狐は、ただ兵十のとなりで川をのぞいている。
おっかあと兵十に救われたから、こんちゃんはニンゲンが大好きだ。
ニンゲンが自分に怖いことをするなんて、考えたこともない。
こんちゃんは、ニンゲンを信じすぎている。
あの日自分がかかった罠を仕掛けたのがニンゲンだということを、理解していない。
ニンゲンの手は、自分を撫でるものだと信じ切っている。
だから、たとえその腕を振り上げられても、逃げることはしない。
期待に満ち満ちた目で、見つめているだけだ。
「ボクぅをいいこいいこしてくれるの? うれしい!」
見た目は中学生ほどでも、生まれてからまだ三か月から五か月ほど。
心は七つから十ばかりの子どものままだ。
こんちゃんは何も知らない。
自分に向けられた悪意を、悪意として受け取ることができない。
教えられたものを、そのままそれだと信じてしまう。
ただ、誰かの喧嘩を見るのだけは好きではなくて、頑張って止めようとする。
「こわいこと? にいちゃんやねえちゃんがいるなら、ボクぅにはなんにもないの」
そう言って笑う子狐に、怖いものはまだひとつもない。
今夜もこんちゃんは、ニンゲンさんたちの名前を聞いて回る。
長い名前は短くして、後ろに「にいちゃん」「ねえちゃん」をつける。
自分より小さな子でも、にいちゃん、ねえちゃんだ。
呼び捨てにするのは、兵十だけ。
「ここのみんなな、みんなな、すごいんだぁ!」
知らないお話をいっぱい聞いて、おっかあと兵十に話して聞かせるのだ。
そして、出会ったばかりの相手にも、何のためらいもなくこう言う。
「ねえ、ニンゲンさん。
かぞくになろう!」
こうして、一人ぼっちにならなかった子狐の物語は、今日も誰かの手を、撫でてくれるものだと信じて待っている。