八月十五日の夜、月がたいそう明るく照り輝いていた。
本来の物語ならば、空から不思議な雲が降り、月の都の人々が姫を迎えに来るはずだった。
かぐや姫は天の羽衣を身につけ、竹取の翁と嫗は悲しみに泣き伏す。
姫もまた、地上で過ごした日々を思い、別れを惜しみながら月へ帰っていく。
しかし、その頁から、迎えの一節が失われていた。
月からの迎えは、来なかった。
かぐや姫は、月の罪人だった。
罪状は、不許の恋。
月の都には、他者を恋してはならないという掟がある。
永遠の命を持つ者たちにとって、恋も愛も、執着でしかなかったからだ。
それでも姫は、一人の方を愛した。
そして罰として、地上へ追放された。
老いることのない身体は、罰として病弱にされた。
恋というものは、自分の意思とは関係なく心が動いてしまうもの。
掟で止められるのなら、それは恋ではないと、姫は本気で思っていた。
けれど、姫は罪を後悔しなかった。
月の都で想い人から贈られた彼岸花の首飾りを、ただ大切に抱いていた。
竹の中から見つけられた姫を、翁と嫗は慈しんで育てた。
翁はたいそう心配性で、姫が少し外へ出るだけでも何度も振り返った。
嫗の作る食事は、月の都では味わえぬものばかりだった。
姫の美しさを聞きつけ、都の公達が次々と求婚に訪れた。
「されば、蓬莱の珠の枝をわたくしのもとへお持ちくださいませ」
姫は無邪気に微笑むだけで、誰の想いにも応えなかった。
心はとうに、月の上にあったからだ。
八月十五日が過ぎても、姫は月を見上げ続けた。
今夜でなければ、明日。
明日でなければ、その次の夜。
いつか迎えが来ると、少しも疑わなかった。
やがて翁と嫗は寿命を迎え、この世を去った。
屋敷も、人々も、長い年月の中で消えていった。
春に出会った者が、幾度か季節を巡るうちに年老いていく。
人は年を重ね、顔も身体も変わっていく。
生きた年月が、目に見える形で残っていく。
姫には、それが少しだけ羨ましかった。
けれど、寿命を持たない月の住人である姫だけは、変わらぬ姿のまま残された。
お顔も、お声も、心さえも、人は変わってしまう。
それなのに、姫だけは、あの日のままだった。
それから姫は、数百年を独りで過ごした。
誰にも名を呼ばれぬ日々の中で、嫗の味を再現しようと、二百五十年も研究を続けた。
それでも、あの味には辿り着けなかった。
床に伏せる夜は、たいそう長い。
目を閉じても眠れず、目を開けても景色は変わらない。
そんな夜、姫は月に向かって話しかけた。
そして、想い人へ文を綴った。
幾年、幾十年、あるいはもっと。
返事が届かなくとも、姫は微笑むだけだった。
きっとお忙しいのだろう。あの方は、昔から少々おっとりしていたから。
迎えが来ない理由は、たったひとつだった。
姫は今も、想い人を慕っている。
月の都にとって、それは反省していないということだった。
けれど、何を反省すればよいのだろう。
あの方を慕ったことか。
今も、慕っていることか。
愛したことを取り消さない限り、罰は終わらない。
そして姫は、それを決して取り消さない。
首飾りの彼岸花には、ふたつの花言葉がある。
「あきらめ」と、「また会う日を楽しみに」。
姫が知っているのは、きっと後のほうだけだ。
彼が自分を諦めたなどと、考えたことさえない。
翁たちを見送った今、地上に姫を待つ者はいない。
だから今日も、同じ言葉を口にする。
「月に帰りたい」
月へ帰る道が、どこにあるのかも分からない。
空をまっすぐ昇ればよいのか、雲の向こうに隠されているのか。
もし迎えが来たなら、三百年分の話を、何日かけて聞いてもらおうか。
長い孤独は、姫を不思議なほど優しくした。
誰に対しても分け隔てなく慈しみ、誰かと話せるだけで、心から嬉しそうに笑う。
けれど、その言葉はときおり人離れしていて、ひどく幼い。
帰る場所を失ったことにも気づかず、姫はハッピーエンドを純粋無垢に待ち続ける。
いつか終わると信じて待つのも、悪くはない。
それが三百年のあいだ、一度も揺らがなかった姫の答えだった。
今宵も、月は何ひとつ変わらぬ姿でそこにある。
誰かの足音が聞こえると、姫は嬉しそうに顔を上げる。
ああ、やはり今宵だったのだと、その人をじっと見つめる。
「……今夜こそ、
来てくださるのでしょう?」
違うと気づいても、姫は少しも落胆しない。
まあ、と首をかしげ、あなた様はなぜここへいらしたのでしょう、と尋ねる。
そして嬉しそうに、月の都の話を語り始めるのだ。
こうして、迎えの来なかった姫の物語は、今も月明かりの下で、書かれることのない頁を待ち続けている。