本来の物語で、人魚姫は魔女に願い、美しい声と引き換えに人間の足を手に入れる。
王子に恋をして、けれど結ばれることなく、海の泡となって消えていく。
それが、誰もが知る結末だった。
しかし、その頁は書き換えられていた。
魔女が求めたのは声ではなく、身体の自由だった。
そして人魚姫には、存在しなかったはずの妹がいた。
名前は、あぶく。
海の底の王国に、歌の好きな七人の姉妹がいた。
まじめで完璧な一番上の姉。
自由を好む二番目。空気を読むのが得意な三番目。
やんちゃな四番目に、うっかりやの五番目。
優しいけれど猪突猛進な六番目が、人魚姫だった。
末っ子のあぶくは、いつもニコニコしていた。
人魚の掟では、成人すれば地上の世界を見に行くことが許される。
その日から彼女は、時間があれば海面まで遊びに行くようになった。
ある日、魔女は人魚姫に取引を持ちかけた。
すべての人魚が、人間になる力を得る魔法。
そして、人間の王子様との幸せな暮らし。
その代わり、人魚姫は意識だけの存在になってしまう。
自分の身体ひとつで、みんなが自由に地上へ行けるようになる。
そう聞けば、悪い話には思えなかった。
海の上に憧れていたのは、人魚姫だけではなかった。
地上と人間に目を輝かせる妹の姿が、そこにあった。
人魚姫は、その取引を承諾してしまった。
人魚姫の身体を手に入れた魔女が、初めにしたこと。
それは、人魚の王国を滅ぼすことだった。
たった一夜で、国は滅びた。
人魚姫の意識は魔女と共にありながら、止めることもできない。
ただ、同じ視界でそのすべてを見ていた。
国中の人魚は、命を失った。
……はずだった。
その夜も、あぶくは海面から、こっそりと地上の世界を眺めていた。
何も知らずに王国へ戻った彼女が見たのは、滅ぼされた故郷の姿だった。
あぶくは涙を流した。
そして、気づいた。
自分に、人間のかたちの足があることに。
魔女の約束は、たしかに果たされていたのだ。
すべての人魚に与えられるはずだった、人間になる力。
それを受け取る者は、もう彼女のほかに誰もいなかった。
一番上から五番目までの姉は、もういない。
六番目の姉は、魔女に身体を奪われたまま、意識だけで共に在り続けている。
今もその目を通して、世界を見ているのかもしれない。
あぶくの胸には、銀のロケットがある。
次の誕生日に、家族みんなの写真を撮って入れるはずだった。
故郷が滅びて、その日は来なかった。
中身は空のまま。触れられれば、家族を思い出して悲しくなる。
それでも外さないのは、忘れたくないからだ。
普段のあぶくは、人魚の尾ひれで暮らしている。
家族や故郷を想いながらロケットに手を当てて念じると、足は人間のかたちに変わる。
続くのは、一日に一時間ほど。
強く想いすぎると、意志に反して変わってしまうこともある。
その短い時間で、彼女は地上へ上がり、お人間さんと交流する。
地上で尾ひれに戻っても息はできるけれど、見つかってはいけない。
だから、こっそりと海へ帰る。
見聞きしたことは、海の仲間たちに話して聞かせる。
言葉の通じない海月の友達にも、身振り手振りで。
魔女が気まぐれに残した足は、皮肉にも、彼女の自由になった。
生きていれば、どうしようもない悲しみが突然降りかかることがある。
海の仲間が人間に食べられることも、世の理だと分かっている。
だからこそ、生きて共に過ごす時間を大切にしたいと思う。
あぶくは、いつもニコニコしている。
悲しみを知らないからではない。
知っているから、今そばにいる誰かとのお話を、何より大切にしているのだ。
自分から死ぬことはない。
危害を加えようとする者には抗う。
目の前で誰かが一方的に傷つけられそうになれば、助けようとする。
「わたくしには、まだやりたいことがたくさんありますの」
APOCRYPHAでは、尾ひれのままでも自由に動ける。
今夜もあぶくは、ニコニコと誰かの隣へやって来る。
食事は必要ないけれど、味を楽しむことはできる。
知りたいことも、話したいことも、まだまだたくさんある。
自由が大好きで、地上で生きるものたちが大好きだ。
頭のかざりを褒められれば、海月さんに似ていて可愛いですわ、と胸を張る。
けれど胸のロケットに話が及ぶと、その笑顔はほんの少しだけ静かになる。
「お人間さん、
お話を聞かせて欲しいのですわ!」
こうして、一夜で滅んだ王国の末の娘の物語は、泡のように消えることなく、今も海面へ昇り続けている。